空白の翻訳

by 1031jp

ドリップ・イット・オール

日が昇ってから家路に就き、早い時間に開けているベーカリーに寄る。「アメリカン、何時頃ですか?」レジに立つ女性が奥に向かって尋ねる。聞こえているのかいないのか、主人は返事をしないが、とにかく食パンはまだ焼きあがらない。木の実のパンや甘いパンなどふたつ、みっつ、店を出てふたたび自転車に跨る。

川を一本渡る。線路を二本越える。大通りを三本横切る。気が重そうな早足で駅に向かう人たち。重装備の自転車を駆る逞しい主婦。にぎやかで眩しい女学生の集団。おじいさんを散歩させる犬。ぼくはいまどんな様子だろうか。

長く、角度のある下り坂に差し掛かる。心配ごとを山ほど抱えたぼくは、ブレーキを離し重力に身を任せる。振り落とせないなら、振り落とされてしまいたい。風とアスファルトを感じながら、今日も目を閉じてみる。

前かごでパンの袋が音を立てる。目を開ける。これを持って、ぼくはいま、きみに会いに行くところ。そんなイメージが浮かぶ。もし本当にそうなら、もっとたくさん買っていこう。きみはどうしているだろうか。

寄り道して帰宅しても、じゅうぶんに朝だ。背中でドアが閉まる。ふうと大きく息を吐く。カーテンを開けて日光を入れ、荷物を下ろし、手を洗い口を漱ぎ、ラジオをつけて、やかんを火にかける。パンを温める。あっという間に食べる。濃く淹れたコーヒー。ブラックで頭をクリアにして、それからたっぷりの牛乳で割る。

ギターを手に取る。コードはどうしよう。ナインスか、それともメジャーセヴンスか。歌い出しは探るように、だんだんと助走をつけて、きみがまだぼくをみている世界へ行けるような、そんな未来がどこかにあると思ってしまいそうな、とびきり甘く胸を締め付ける旋律を。やがていったん潜水し、水しぶきを上げてもう一度だけ、今まででいちばん高く、思い切り高く飛び上がったら、さあ、エンディングを始めよう。

大した理由はないだろう。今日もあちこちで色々なものごとが、始まったり、変わったり、擦り切れたり、傷が付いたり、くっついたり、遠くなったり、そうならないまま終わったりしている。

目の前に白紙が広がっている。歌詞にとりかかる。叶わない想像も、飲み込んでしまった気持ちも、悲しい嘘も、現実も、誤解も、秘密も、どうしようもなさも、形のないものはすべて、せめて美しく昇っていけるといい。